
WebMasterの父親は「日本粘土(にほんねんど)」の坑内で働く坑夫であった。
正確には下の沿革のとおり「日本粘土」というのは昭和30年に再開した後の名称で、実際の経営会社は違ったりするのだが、少なくとも周りでは「日本粘土」または「炭鉱」と呼ぶのが普通であった。写真はその日本粘土で掘った石炭である。
<沿革>(「岩泉地方史<上巻>」p862~871より)
- 天保末期(1840)頃 門の上酒屋儀助が石炭を採掘。※1
- 大正10年 「東北鉄道鉱業株式会社」設立。
- 昭和8年 大沢地区に水平坑を開坑。石炭の採掘、販売を開始。
- 昭和9年 坑口と県道の中間に選炭場を設ける。
- 昭和9年 茂師港から船積されて東京の燃料問屋「宗像商会」へ送られる。
- 昭和11年 「岩手炭鉱鉄道株式会社」が鉱業権を取得。
- 昭和11年 「岩手炭鉱株式会社」と改称。 ※4
- 昭和13年 石炭の上下盤の粘土が優れた耐火粘土であることが分かり、粘土の採掘・販売を開始。
- 昭和18年 戦時体制のため耐火粘土の増産態勢がしかれた。※2
- 昭和18年 岩手炭鉱株式会社の経営を日鉄鉱業(株)に委任。 ※4
昭和21年 岩手鉱業所の経営を日鉄鉱業株式会社へ委任。月産最高11,865トンへ。 ※4
- 昭和22年 日鉄鉱業(株)への委託経営が解除され、名称を「岩手窯業鉱山株式会社」と改める。 ※4
昭和23年 「岩手窯業鉱山」と改称。 ※4
- 昭和23年 アイオン台風により輸送路が絶たれ大打撃を被るも、徐々に回復。
- 昭和29年 鉄鋼業界不況の影響をうけて受注が減少し、倒産。
- 昭和30年 「日本粘土鉱業株式会社」設立。租鉱権を設定し、岩手鉱業所を再開。
- 昭和34年 「岩手窯業鉱山」より鉱業権その他を買収。
- 昭和36年 硬質粘土焼成のため、ロータリーキルンを設置、硬質シャモットの生産に入る。
- 昭和38年 鉄鋼業界不況の影響をうけて休業。閉山の危機。
- 昭和38年 三井金属鉱業が事業を担当し、企業を継続。
- 昭和39年 Bシャモットの製造、販売を開始。
- 昭和42年 粉砕品の製造、販売を開始。
- 昭和43年 小松一坑掘り残しの硬質粘土を露天掘り。
- 昭和46年 鉱車の鉄化により運搬を合理化。
- 昭和47年 耐火粘土を利用しての、陶器「うれら焼」の生産を始める。※3
- 以下ケイゾク調査中...
WebMasterが実家の小川(こがわ)にいた頃は日本粘土の石炭にお世話になっていた。
実家では風呂をたくのに薪釜を使っていたが、石炭を使ったりしていた時期がある。(当然火力があってお湯がよく沸くのはいいのだが、火力がありすぎて釜にはよくなかったかもしれない。)
また小川(こがわ)中学校が現在の校舎になる前、冬になると教室中央にはダルマ型の石炭ストーブがおかれ、ストーブの側面が真っ赤になるまでガンガンに燃えていたものである。悲しいかな木造のボロ校舎ではストーブの周りは熱くても、教室のすみは寒くて凍えていたものである。あの時の石炭は日本粘土で掘った石炭だったのだろう。
余談であるが、石炭ストーブの上には水をはった小さな金タライをのせていた。空気の乾燥を防ぐためであるが、給食に出る牛乳(野舘牛乳)が冷たいというので、牛乳ビンをこの金タライに入れて温めていた。ところがお湯の対流の関係で温度差ができたためだと思うが、ビンの底が抜けてしまうことがあった。お湯ではなくて、牛乳からの湯気が教室に充満したのである。
閑話休題。
平成の大合併といわれた市町村合併。今回が最初ではなく昭和の時代にもあった。本州随一の広大な町(面積992.91キロ平方メートル)となった岩泉町も、昭和31年に岩泉・大川・小本・安家・有芸の1町4ヵ村が、翌年の昭和32年には小川村が遅れて合併している。
平成の市町村合併を見ても分かるとおり、比較的財政に余裕があるところはよそとは合併したくないというのが本音のようである。
小川村の場合は昭和29年、前身の「岩手窯業鉱山」が倒産していたことも岩泉への合併にかなり影響したのではなかろうか?小川の地場産業は炭鉱だけといってもよく、倒産されたら村の税収もガタ落ちだったであろう。(もちろん物理的な隔絶感はあったと思われる。何しろ小川と岩泉(町内)への道が二車線になったのはWebMasterが小川を離れた後で、そう昔のことではないのである。)