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2006年12月 アーカイブ

2006年12月01日

多嘉峯金山

岩泉町大川に金、銀、銅を産出する鉱山があったらしい。
残念ながら「多嘉峯」「十両沢」ではGoogleでも地図でもどこにあるのかさっぱり分からず...。
宮古のラサ鉱業なら場所はよく知ってるが(^^;

<状況>

  • 鉱区に往時使われたと思われる石臼が散乱している。
  • 崩壊、陥没している旧坑がある。
  • 往時1人あたり10両の所得があったため「十両沢」という地名がついたという言い伝えがある。

<歴史>

  • 約300年前 鉱山の発見、採掘開始か?
  • 昭和8年 岩手県黒沢尻(北上市)郡司信太郎氏が旧坑を発見、権利を取得し、探鉱を続ける。
  • 昭和12年末 休業
  • 昭和16年~昭和18年 宮古のラサ鉱業宮古製錬所に金9,077キログラム、銀2,186キログラムを売鉱した。
  • 昭和19年 帝国鉱業開発会社に権利が移る。
  • 昭和23年9月 東京の猪又功氏の所有となる。
  • 昭和?年 岩手県岩泉町上町、高野氏の経営となるも休山。

<閉山の理由>

  • 交通不便のため運賃が経費の大半であったため。

以上「岩泉地方史<上巻>」p756より

本銅鉱山

岩泉町袰綿に金、銅を産出する本銅(ほんどう)鉱山があった。
小川(こがわ)中学校の同級生でK舘さんという女子がいたけど、その人が住んでいたのが本銅口(ほんどうぐち)というところだった(はず)。

<歴史>

  • 発見は不明だが、以下のように坑名が採掘年代と思われる。
    • 天正坑・・・天正(1573~1591)
    • 文禄坑・・・文禄(1592~1595)
    • 慶長坑・・・慶長(1596~1614)
    • 元和坑・・・元和(1615~1623)
  • 元和3年(1617) 盛岡の十三日町彦作が経営し、21万7000貫(813,750キログラム)を生産。
  • 享保6年(1716) 舟木某(軍左エ門)が稼業。
  • ?(?) 南部藩が御手山(直営)に指定、舟木御山と改称。
  • ?(?) 南部藩の政策変更により役員・人夫が尾去沢鉱山へ移され、開店休業。
  • ~明治 野武士、山武士の圧力があり休山。
  • 明治37年 盛岡の鈴木某が坑内の廃鉱を処理して椿鉱山へ売鉱。
  • ? 交通不便で採算割れとなり休山。
  • 大正元年 東亜鉱業会社が経営。年間約800トンの金、銀、銅鉱を日立製錬所へ売鉱。
  • 昭和6年 岩手県和賀郡横川目の高橋清右エ門へ権利が移る。
  • 昭和6年? 岩手県花巻市の菊池彦次郎へ権利が移る。
  • 昭和7年 東京の小長井幸太郎へ権利が移る。
  • ? 鉱山学者横堀博士の詳細な調査により、良好な鉱山であることが判明。
  • 昭和11年 小長井朗(幸太郎の子息)が小規模採掘、各坑道の調査を始める。
  • 昭和13年 有望な富鉱脈を発見、月産150トンへ。岩手鉱山株式会社を設立し、本格操業となる。
  • 昭和23年 台風による被害と輸送悪化により休止。

<名前の由来>

  • 南部藩により役員・人夫は尾去沢鉱山へ移されたが、そもそも舟木御山が本家であるという意味から「本銅みやま」と呼ばれており、「本銅鉱山」となった。

<産出量>

年次 鉱量(t) 含金量(g) 含銅量(k)
昭和14年 70 120 6,357
昭和15年 230 2,024 13,547
昭和16年 334 3,874 22,172
昭和17年 461 3,504 37,802
昭和18年 150 1,070 5,000
昭和19年 375 2,874 17,755

以上「岩泉地方史<上巻>」p754~756より

昭和13年で月産150トンは単純に12掛けると1,800トンになり、昭和14年以降の数字とだいぶずれてくる。単純に年産150トンの誤りか?資料だけだと元和3年とか大正元年の年間800トンがピークにも見えるが、時代によって技術が違うため単純比較できないのかも...。

2006年12月02日

本銅鉱山と岩泉線

本銅鉱山の歴史を見ていて思ったこと。

下の2つを見比べると分かるように岩泉線運休が原因の一つとなって本銅鉱山が閉山したのは間違いないようである。
ということは、岩泉線は小川(こがわ)炭鉱(当時は「岩手炭鉱鉄道(株)」)の耐火粘土だけでなく、本銅鉱山の金・銀・銅の鉱石も積んでいたと言えそうだ。

本銅鉱山

  • 昭和13年 有望な富鉱脈を発見、月産150トンへ。岩手鉱山株式会社を設立し、本格操業となる。
  • 昭和23年 台風による被害と輸送悪化により休止。

岩泉線(当時小本線) 「岩泉線 鉄道情景への旅」より

  • 昭和16年 耐火粘土を釜石の製鉄所へ輸送する貨物鉄道として、茂市~浅内間着工。
  • 昭和17年 茂市~岩手和井内間開業。
  • 昭和19年 押角まで延長開業。岩手和井内~押角は貨物営業のみ。
  • 昭和22年 宇津野まで延長開業。押角で旅客営業開始。押角~宇津野間は貨物営業のみ。
  • 昭和23年 風水害により運休。(昭和23年11月26日~昭和24年3月5日)

こちらのサイトが詳しいが、昭和19年に押角駅が開業した時点で、


耐火粘土は小川~浅内間は索道、浅内~押角間の峠越えルートはトラックで運ばれたという。現在でも自動車の行き違いが困難なほど道幅の狭い、断崖絶壁・葛折の続く国道340号線を、耐火粘土を満載したトラックが日に50余台も行き交ったという当時の様を想像すると、少々ぞっとする。

というように戦時下で最優先されていたようだが、本銅鉱山の金・銀・銅はどうだったのだろう?

061201_hondo_s.jpg

本銅付近を見ると、耐火粘土のような浅内経由は遠回りに見える。本銅からそのまま山を越えて大川を経由して押角まで運んだようにも思えるし、少なくとも宇津野駅が開業した昭和22年からは運ぶ距離は減ったはずではあるのだが...。要調査である。

ご存知の方はぜひおしらせくださいm(_ _)m

帝国鉱業開発株式会社とは?

戦時体制下で重点産業を国の監督下におくための特殊会社であった。
<沿革>


  • 昭和14年 帝国鉱業開発株式会社法

  • 昭和24年 財閥解体政策により解散。新鉱業開発株式会社に全事業を承継。

昭和24年当時の国会での議事が公開されている。これまで国策で銅には補助金をつけてまで自国で賄う路線だったのを、在庫が積みあがってしまったので補助金はやめて自由競争で価格も市場相場に委ねるという路線に180度変わったということである。これにより銅の価格は下落し、運搬費用がかかりすぎるという元々あった問題により岩泉地方の鉱山は閉山ということになったのであろう。戦時下で耐火粘土などを運搬するために着手された岩泉線も、当初計画していたとおりに延長できず、盲腸線になってしまったのはこのような背景があったのである。

以下議事を一部抜粋。


第006回国会 通商産業委員会 第5号
昭和二十四年十一月十八日(金曜日)
   午後一時四十一分開会
<中略>
  本日の会議に付した事件
○帝国鉱業開発株式会社法の一部を改
 正する法律案(内閣提出)
<中略>
○鎌田逸郎君
この機会にちよつと……。この帝国鉱業開発会社というのは、これは地下資源を開発するためには、相当の貢献をなした会社であつた。結果においては相当の赤字も出たかも知れませんが、日本の地下資源の開発には相当寄興したことは自分もよく承知しております。現在日本の期待するものは銅でもあり、又金ですが、この銅の補償を打ち切られた後において、非常に小さい業者は困つておる現場において工賃も支拂がてきないとか、或いはいろいろのことが現われておるような状態なんですが、これに対して今後この銅とか金に対してとういうような方法を考えておられるか、これを一つこの場合お伺いすれば非常に都合がいいのですが。
○国務大臣(稻垣平太郎君)
銅につきましては、補給金を外しましたことは御指摘の通りでありまして、これに対しては、御承知のように大体三千トンばかりが鉱石から、三千トンばかりが故銅から、大体六千トンばかり月の生産があります。ところが需要の面におきましては、非常に少いのでありまして、この需要の面が少いということは、主として電線業者いわゆるケーブル関係の需要が少い、こういう関係で先月のごときは、僅かに千五百トンぐらいしか需要がなかつた。その前は七千トンありましたのですが、そういつたような情勢でありまして、従つてストックが沢山できる、このストックがありますために、市場を非常に圧迫するということに相成つておりますので、一万トンを限つて特別に斡旋いたしまして、融資いたすことに相成つております。大体融資が出来上つております。この出来上つた融資は実際において御指摘の中小鉱山に流れて行くと私は思うのであります。従来御承知のように大企業が製錬所を持つておりまして、そうして中小鉱山はこれに売鉱いたしておるのであります。その売鉱は大体鉱石の品位と、そうしてこれに対する製錬費を引きまして、それに対する歩留りをかける、これが製錬費の大体の方式でありますが、それに合わなかつた従来の例によりましても、鋼鉱業は御説のように非常に起伏が多くございまして、アメリカでも値段が非常に動いております。最近でも高いときには、二十三セントから低いときには十四セントまで落ちておる。こういつたように幅があるのでありまして、それに応じまして日本でも昔から銅の商売といいものは大体ニューヨークの相場の上り下りによつて動かされておつたのであります。それでその動かされた形は、結局先にいつた製錬費のいわゆるかかりによつてこれが決定して行く。そこで実際に中小鉱業は従来でも銅相場が上つたときには非常に買つて貰える、下つたときには買つて貰えない、これが従来行われておつた現状であります。大鉱業に今融資が六会社くらい行われましたので、従つてこれは私は流れで行くものと考えておるのであります。これが従来の銅鉱業の慣例であり、又そうあることが真に需給を調節するゆえんだと私は考えておるのであります。
 尤も銅は一体日本は輸入国でありまして、戰前は日本内地の銅が七万トン、需要が十一万トン、三、四万トンは常に輸入しておつたのでありますから、その時期は私は遠からず来るものと考えております。今貯銅が大体二万五千三百トンぐらいあると承知いたしておりますが、最近これが圧迫をいたしておりますので、七千五百トンの輸出の許可を得まして、これはアメリカの相場が十八セント半でありまして、これ二セント引きの十六セント半、FOB横浜渡しであります。この慣行は大体二セント引きで常に行われております。それで七千五百トンが出ます。近く六千トンの許可も出ることになつております。そうなりますれば市場を圧迫することも少くなり、従つて内地における消費価格が上つて来ると私は存じておるのであります。
 それから金の方の問題でありますが、金の方の問題は産金が止められておつた。戰争中大いに産金をやつたのですが、戰後全然産金を止めておる。一面金の政策がはつきりいたしておりませんでしたのと、金を許可しても果してどうなるかということが、はつきり見すえがつかなかつたために、産金については全然考慮していなかつたわけであります。今出ておりますのは大体年二トン半程度でありまして、歯科医用、或いは裝飾用に主に使われておるわけであります。併しながら今後貿易、殊に自由貿易に立つに至りますと、どうしても産金が必要であることはこれは申すまでもないことでありまして、通産省といたしましては、大体三年後には十トン程度にこれを上げて行きたい、こういう考を持つておりまして、現在青化製錬は一カ所だけしか動いていないのでありますが、この青化製錬の整備なり、或いは探鉱についての整備をさせたい、八ないし十の金山に対して、これが融資その他の斡旋をいたすことにいたしておるわけであります。例えば北海道の鴻の舞でありますとか、或いは鹿児島の串木野、或いは持越とかいつたような優良鉱山は、それぞれ動かすようにいたしてみたい、かように思うのであります。
 尚金山につきまして今帝国開発の関係がありましたが、帝国開発は従来戰争の目的のために、御指摘のように戰争中銅鉱、或いは金鉱の採掘について非常にあずかつて力があつたわけでありますけれども、併しながらこれは画一的な稼行方法になつております。これを解散するについては従来取上げました鉱山を返して貰いたいという声があちらこちらにあるのであります。これはできるだけその元の持主に返還する、元の持主は自分の創意と熱意によりましてこれを再び稼行して行くという方向に向うことであろうと私は想像いたしております。

日本粘土

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WebMasterの父親は「日本粘土(にほんねんど)」の坑内で働く坑夫であった。
正確には下の沿革のとおり「日本粘土」というのは昭和30年に再開した後の名称で、実際の経営会社は違ったりするのだが、少なくとも周りでは「日本粘土」または「炭鉱」と呼ぶのが普通であった。写真はその日本粘土で掘った石炭である。

<沿革>(「岩泉地方史<上巻>」p862~871より)

  • 天保末期(1840)頃 門の上酒屋儀助が石炭を採掘。※1
  • 大正10年 「東北鉄道鉱業株式会社」設立。
  • 昭和8年 大沢地区に水平坑を開坑。石炭の採掘、販売を開始。
  • 昭和9年 坑口と県道の中間に選炭場を設ける。
  • 昭和9年 茂師港から船積されて東京の燃料問屋「宗像商会」へ送られる。
  • 昭和11年 「岩手炭鉱鉄道株式会社」が鉱業権を取得。
  • 昭和11年 「岩手炭鉱株式会社」と改称。 ※4
  • 昭和13年 石炭の上下盤の粘土が優れた耐火粘土であることが分かり、粘土の採掘・販売を開始。
  • 昭和18年 戦時体制のため耐火粘土の増産態勢がしかれた。※2
  • 昭和18年 岩手炭鉱株式会社の経営を日鉄鉱業(株)に委任。 ※4
  • 昭和21年 岩手鉱業所の経営を日鉄鉱業株式会社へ委任。月産最高11,865トンへ。 ※4
  • 昭和22年 日鉄鉱業(株)への委託経営が解除され、名称を「岩手窯業鉱山株式会社」と改める。 ※4
  • 昭和23年 「岩手窯業鉱山」と改称。 ※4
  • 昭和23年 アイオン台風により輸送路が絶たれ大打撃を被るも、徐々に回復。
  • 昭和29年 鉄鋼業界不況の影響をうけて受注が減少し、倒産。
  • 昭和30年 「日本粘土鉱業株式会社」設立。租鉱権を設定し、岩手鉱業所を再開。
  • 昭和34年 「岩手窯業鉱山」より鉱業権その他を買収。
  • 昭和36年 硬質粘土焼成のため、ロータリーキルンを設置、硬質シャモットの生産に入る。
  • 昭和38年 鉄鋼業界不況の影響をうけて休業。閉山の危機。
  • 昭和38年 三井金属鉱業が事業を担当し、企業を継続。
  • 昭和39年 Bシャモットの製造、販売を開始。
  • 昭和42年 粉砕品の製造、販売を開始。
  • 昭和43年 小松一坑掘り残しの硬質粘土を露天掘り。
  • 昭和46年 鉱車の鉄化により運搬を合理化。
  • 昭和47年 耐火粘土を利用しての、陶器「うれら焼」の生産を始める。※3
  • 以下ケイゾク調査中...
  • ※1 門村のお給人斎藤三平が砂鉄の熔解に石炭を利用することに着目、儀助にすすめて採掘させ「岩鉄」と称して大披(おおひらき)鉄山に運ばせ、燃料として使用したという言い伝えがある。
  • ※2 小川(こがわ)中学校のM原先生が若かった時分、戦時体制ということで日本粘土で働かされたという話をしていた。
  • ※3 当時「うれら焼」の工房は下横道にあり中沢小学校の学区となっていたため、社会見学で訪ねたことがある。
  • ※4 2009/10/04 以下の記事により訂正。

    '93 不思議の国いわいずみ ふるさとノート 岩泉民間伝承研究会

    鉱山(やま)の灯を消すな - 闘いぬいた八ヶ月 日本粘土鉱業所閉山反対の闘いの記録

WebMasterが実家の小川(こがわ)にいた頃は日本粘土の石炭にお世話になっていた。

実家では風呂をたくのに薪釜を使っていたが、石炭を使ったりしていた時期がある。(当然火力があってお湯がよく沸くのはいいのだが、火力がありすぎて釜にはよくなかったかもしれない。)

また小川(こがわ)中学校が現在の校舎になる前、冬になると教室中央にはダルマ型の石炭ストーブがおかれ、ストーブの側面が真っ赤になるまでガンガンに燃えていたものである。悲しいかな木造のボロ校舎ではストーブの周りは熱くても、教室のすみは寒くて凍えていたものである。あの時の石炭は日本粘土で掘った石炭だったのだろう。

余談であるが、石炭ストーブの上には水をはった小さな金タライをのせていた。空気の乾燥を防ぐためであるが、給食に出る牛乳(野舘牛乳)が冷たいというので、牛乳ビンをこの金タライに入れて温めていた。ところがお湯の対流の関係で温度差ができたためだと思うが、ビンの底が抜けてしまうことがあった。お湯ではなくて、牛乳からの湯気が教室に充満したのである。

閑話休題。
平成の大合併といわれた市町村合併。今回が最初ではなく昭和の時代にもあった。本州随一の広大な町(面積992.91キロ平方メートル)となった岩泉町も、昭和31年に岩泉・大川・小本・安家・有芸の1町4ヵ村が、翌年の昭和32年には小川村が遅れて合併している。
平成の市町村合併を見ても分かるとおり、比較的財政に余裕があるところはよそとは合併したくないというのが本音のようである。
小川村の場合は昭和29年、前身の「岩手窯業鉱山」が倒産していたことも岩泉への合併にかなり影響したのではなかろうか?小川の地場産業は炭鉱だけといってもよく、倒産されたら村の税収もガタ落ちだったであろう。(もちろん物理的な隔絶感はあったと思われる。何しろ小川と岩泉(町内)への道が二車線になったのはWebMasterが小川を離れた後で、そう昔のことではないのである。)

2006年12月03日

ホルスタインを購入した佐藤儀助

以外なところに佐藤儀助の明治以降の足跡が残っていた。

「岩泉地方史<上巻>」p582


これと前後する明治29年、穴沢工藤熊次郎(屋号六角)と佐藤儀助(金升屋)は村内の有志と諮って札幌農学校第二農場からホルスタイン牡牛二頭を購入している。

屋号が金升屋だったり金枡屋だったりと、ところによって表記が違っているが同一と思われる。
南部藩(盛岡藩)がなくなり、これまでのたたら製鉄は釜石の洋式高炉に取って代わられた中、明治になって酪農に活路を見出したのだろうか?

安家地大根のダイコンおろし

# 11/5に撮った写真です。

061105_jidaikon1_s.jpg
7:18 台所を出て5秒の畑で安家地大根(あっかじだいこん)を掘り出します。

061105_jidaikon2_s.jpg
7:18 葉っぱをとって、泥を水で洗い流します。

061105_jidaikon3_s.jpg
7:21 擂りおろします。

061105_jidaikon4_s.jpg
7:51 いただきます!

安家地大根の料理を紹介します。
といっても一番シンプルなダイコンおろしです。

サンダル履きで安家地大根を抜いているのは母ヨウコです。
台所から目と鼻の先の畑なので、必要なときに掘り出せて便利です。
葉っぱはその場で取って、そのまま土にお返しします。

泥を洗い流して、擂りおろせばダイコンおろしのできあがり!!
あ、擂りおろすのはこの後カメラマンの私(WebMaster)もやってます。

ということでこの日の朝ごはんは若干遅めの7:50スタートでした。

少量の酢を入れてあるためか、言われているほどの強い辛味は感じなかったのですが、鮮やかなピンク色のダイコンおろしは彩(いろどり)としていいかも。

2006年12月04日

穴目ケ岳(あなめがたけ)

旧小川(こがわ)村と旧安家(あっか)村の間にあるのが穴目ケ岳です。

「岩泉地方史<下巻>」p776


穴目ケ岳(1,166メートル)は通称アナメと呼ばれ小川の人々に親しまれる山で、「全体塊状なれど、頂上は雙峰(そうほう)並び立ちいで穴目の名これより起る」という。展望のよい山で昔から放牧地になっていて牛神を祀っていたが、門衆と安家衆が争いをおこして、牛神の男、女をわけて堂を造って祀った。(折壁口の穴目大明神、祭日旧4月8日)

「岩泉地方史<下巻>」p860


穴目が岳(1,168)は「頂上隻峰(せきほう)並び立ちて穴目の名」これよりおこる。(ア - 空、マタ - 徒は相通ずる)という展望のよい山で牛の神が祀られていたのを、小川村と安家村で争いが起こり男神と女神をわけてしまった。折壁口にはこの穴目大明神(祭日9月14日)が祀られている。

名前の由来についてはこの説明だと意味がよくわかってませんが、「むかし小川村と安家村で争いがあって云々」の話はWebMasterの親が亡くなったおじいさんから聞いたことがあるそうです。曰く「酒どが、どべ(どぶろく)どが飲んでぇで、ケンカになったずぅ。」という話。いつごろの話なのかも不明ですが、大正生まれのおじいさんの昔話ということなので明治かそれ以前かな?(江戸時代末期の三閉伊一揆のあたりかも。)

安家(折壁口)のほうはまだお堂が残ってるらしいですが、小川のほうはどこに祀ったのか不明です。
ご存知の方ご一報を。

養子宇助

「日本僻地の史的研究 下巻」p343~p344


大島は大橋における熔高炉生産の成功につれて、それに対応する鉄鉱石を掌握すべく各地を調査しているが、安政5年6月橋野村内猫軸というところに鉄鉱床を発見し、大島・田鎖仲以下6人で、5月28日から6月6日迄探査の結果優良な鉄鉱石であることが判明したので、ここに新熔高炉建設を計画し、橋野村にその可否を諮問した。これに対して橋野村は、(中略)と答申し、藩営として田鎖を中心に橋野村青の木に三基設営し、上田通門村の鉄山師佐藤儀助の養子宇助を差配役として経営せしめた。

文中の「大島」とは日本近代製鉄業の父といわれる大島高任のことである。橋野村(現在の釜石市橋野町)に設置した三基の高炉の運営を藩から任されたのが佐藤儀助の養子宇助であったのは、藩の鉄山経営の実績によるものか。

2006年12月05日

袰綿村の忠兵衛

袰綿(ほろわた)村に三閉伊一揆の指導者がいたとは...。

「日本僻地の史的研究 下巻」p1299


嘉永6年(1853)の一揆の最初の指導者は袰綿村の忠兵衛であったが、同年3月突然中風で急死したので、一時一揆は中止された。

遠野唐丹寝物語に登場する門村儀助

以下は平易な文章で嘉永一揆当時の門村儀助が描かれています。「幸右エ門」はお給人「斎藤三平」のことでしょうか?儀助は商人だったのが、金で武士の株を買って金上侍になったようです。

「岩泉地方史<下巻>」p222


ところが角野(門)というところに門村儀助という金持ちがあって、此者元は土民なれども、上をとりなして御給人となり、鉄山の元締役である。そのため御上の威をかり近くの村の百姓を御用人足につかい、下の難渋は大形でなく、この度儀助の日頃のよろしからざることを憎んで家をこわそうと評議したれば、このことを聞くや儀助は、金五百両を出し人を頼んでわびを入れたので、押寄の者得心して儀助の家はこわさなかったが、儀助の借家に幸右エ門という役銭取の者がいて日頃よくない者だというので大勢とりかかってこわしてしまった。

※ 上記は関口喜多路氏が黒沢尻の友人から寄贈された「唐(遠)野遠(唐)丹寝物語」という歴史物語本を口語解読したもの。本の末尾に「会陽住人仙龍軒寝忘僧南石」と記してあるが、この人物が誰であるか判明していないとのこと。内容も、地名・人名・文章など意識的に替え字・当て字を使っているものの、他の嘉永一揆の記録と一致する点が多いため、一揆に参加した有識者と推定している。

2006年12月09日

小川(こがわ)サケ、大川(おおかわ)マス

勝手に命名しましたが、大正・昭和初期までは内陸奥深くの小川(こがわ)村、大川(おおかわ)村でもサケ・マスが獲れたそうです。

「岩泉地方史<上巻>」p663~p664


如上、小本川名産の鮭も諸処に発電用水貯水堰堤が構築されたことにより、遡上を阻まれ上流地域ではその姿を認めることができなくなったのである。
往昔小川地区では国境まで鮭が登り伊底羽神社に御神酒と共に供えたとか、名目入で千五尾の鮭を掛けたから千五掛淵の名称ができたとかの伝説があるが、それは別として、大正~昭和の初期頃までは小川方面でも相当数の鮭がとれ食膳を賑わしたものである。同じ小本川上流でも小川河には鮭、大川河には鱒の遡上がよく大川河の猿走り漁場では一日数十尾もとれたのである。当時は人工孵化放流はないから大川、小川それぞれ鮭鱒自然孵化稚魚の降流の差によったものと思われる。

サケって毎年、宮古市の親戚から岩泉の実家で頂いてましたが、昔は頂くものではなくて自分で獲って食べるものだったんですかね?(^^;
テレビでみかける北海道のクマみたいに、大正・昭和初期までクマがサケ食べてるのが小川でも見られたんでしょうね。

輸入サーモン、銀毛、ケイジとかいってる現代と違い、川を遡上してきた「ブナ毛」のサケでも、当時としては食卓を賑やかにしてくれるありがたい魚だったことでしょう。

2006年12月18日

クルミの木の手入れ

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~12/15 AM11:25 大久保@岩泉の写真~

天気がよくてェ、今のうぢだと思って外仕事してだった。
上(お隣さんの家)の道路にクルミの枝がかがってだがら、とぉが切り落どしてだどこだ。カンブンに行って高枝切バサミを買ってきたがら切りやすがったべぇ。(母ヨウコ談)

2006年12月20日

ホワイトクリスマスの予感

061218_whiteChristmas_m.jpg
~12/18 AM11:26 大久保@岩泉の写真(空が真っ青なのは合成ではありません。)~

小屋の後ろの大きなもみの木は「アルプスの少女ハイジ」、大きな杉の木があるのは岩手県岩泉町門大久保の実家。年々大きくなってる。ライトアップすればクリスマスツリーによさげ。(WebMaster)

2006年12月27日

大雨で土砂崩れがおきました

061105_alert_m.jpg
~11/05 AM10:45 大久保入り口の警告@岩泉の写真~

岩泉の実家と電話連絡を取ったところ、岩手日報の記事のとおり、岩手県内は大雨と風で大変なことになっているそうです。

大久保の沢はいたるところ法面がむき出しのところが多く、写真の警告のとおり今年秋にも何箇所か土砂崩れを起こしていたのですが、同じところがまた崩れて道をふさいだそうです。幸い人が巻き込まれる事はなかったようですが、生活道路なので影響は大きいです。

今日の日中、一度は土砂を撤去したのですが、また同じ山が崩れてきており明日再度の撤去作業が必要な状況となっているようです。

現在「おあげんせ」で注文をいただいてもすぐに出荷できない状況となっております。
(WebMaster)

2006年12月30日

土砂崩れ仮復旧しました

061230_fukkyuu_m.jpg
~12/30 15:09 土砂崩れ仮復旧@岩泉の写真~

12/27の記事でお知らせしました土砂崩れは、昨日仮復旧しました。
皆様には大変ご迷惑をおかけしましたが、ひとまず通常の生活はできておりますし、「おあげんせ」の注文にも対応できる状態となっております。

なお写真のとおり土砂を取り除いただけの「仮」復旧ですので今後問題があれば逐次報告いたします。(WebMaster@岩泉)

お知らせ

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