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本銅鉱山

岩泉町袰綿に金、銅を産出する本銅(ほんどう)鉱山があった。
小川(こがわ)中学校の同級生でK舘さんという女子がいたけど、その人が住んでいたのが本銅口(ほんどうぐち)というところだった(はず)。

<歴史>

  • 発見は不明だが、以下のように坑名が採掘年代と思われる。
    • 天正坑・・・天正(1573~1591)
    • 文禄坑・・・文禄(1592~1595)
    • 慶長坑・・・慶長(1596~1614)
    • 元和坑・・・元和(1615~1623)
  • 元和3年(1617) 盛岡の十三日町彦作が経営し、21万7000貫(813,750キログラム)を生産。
  • 享保6年(1716) 舟木某(軍左エ門)が稼業。
  • ?(?) 南部藩が御手山(直営)に指定、舟木御山と改称。
  • ?(?) 南部藩の政策変更により役員・人夫が尾去沢鉱山へ移され、開店休業。
  • ~明治 野武士、山武士の圧力があり休山。
  • 明治37年 盛岡の鈴木某が坑内の廃鉱を処理して椿鉱山へ売鉱。
  • ? 交通不便で採算割れとなり休山。
  • 大正元年 東亜鉱業会社が経営。年間約800トンの金、銀、銅鉱を日立製錬所へ売鉱。
  • 昭和6年 岩手県和賀郡横川目の高橋清右エ門へ権利が移る。
  • 昭和6年? 岩手県花巻市の菊池彦次郎へ権利が移る。
  • 昭和7年 東京の小長井幸太郎へ権利が移る。
  • ? 鉱山学者横堀博士の詳細な調査により、良好な鉱山であることが判明。
  • 昭和11年 小長井朗(幸太郎の子息)が小規模採掘、各坑道の調査を始める。
  • 昭和13年 有望な富鉱脈を発見、月産150トンへ。岩手鉱山株式会社を設立し、本格操業となる。
  • 昭和23年 台風による被害と輸送悪化により休止。

<名前の由来>

  • 南部藩により役員・人夫は尾去沢鉱山へ移されたが、そもそも舟木御山が本家であるという意味から「本銅みやま」と呼ばれており、「本銅鉱山」となった。

<産出量>

年次 鉱量(t) 含金量(g) 含銅量(k)
昭和14年 70 120 6,357
昭和15年 230 2,024 13,547
昭和16年 334 3,874 22,172
昭和17年 461 3,504 37,802
昭和18年 150 1,070 5,000
昭和19年 375 2,874 17,755

以上「岩泉地方史<上巻>」p754~756より

昭和13年で月産150トンは単純に12掛けると1,800トンになり、昭和14年以降の数字とだいぶずれてくる。単純に年産150トンの誤りか?資料だけだと元和3年とか大正元年の年間800トンがピークにも見えるが、時代によって技術が違うため単純比較できないのかも...。

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コメント (9)

びった:

本銅には、ほんどのゆっこっていう風呂があって、
ばあちゃんが入りに行ってました。

どうやら坑道から湧いた水かな?
を引き入れていたようです。

俺は炉端で、近隣のじいさんたちが花札やってるのを
みていた記憶があります。


袰綿の中滝の近く、刈屋勢の押し寄せの主戦場のあたり
にも、岩盤から湧いた水を沸かした湯っこがありました。

古ーいお風呂で入るには勇気がいりました。

そこのじさまが、女が入ると何回も湯加減を見に来るって、
ばあちゃんたちが言ってました。w


貴重なお話ありがとうございますm(__)m
どちらも初めて聞いた話ばかりで。。。

「ほんどのゆっこ」と「袰綿のゆっこ」って今もありますかね?
本銅には一度行きたいと思ってたのですが、本銅口~大川の道は細くて冬は行かない方がよいと聞いてたので、雪が降らない時期に行きたいなと。

>そこのじさまが、女が入ると何回も湯加減を見に来るって、ばあちゃんたちが言ってました。w

んー、おおらかでいい味出してますね(笑)

びった:

どうかなぁ、最近は小本や山根まで風呂に入りに行く
時代だから、もうないかもしれませんね~。

昔は救沢にもゆっこがあったけど、
発破かけたら湯が出なくなってなくなったとも、
ばあちゃんが言ってました。

本銅のゆっこのところにも、サンショウウオがいました。
でももう俺もほとんど記憶がありません。

>どうかなぁ、最近は小本や山根まで風呂に入りに行く時代だから、もうないかもしれませんね~。

そうですね。道路が整備された恩恵で岩泉(近く)の温泉といえば、小本温泉と山根温泉ですね。あと葛巻のカンブンを合わせると、地元のメジャースポットと言うか(笑)
誰かしら知ってる人に会うって実家の両親が言ってました。

>昔は救沢にもゆっこがあったけど、発破かけたら湯が出なくなって

火山は無いのにほうぼう温泉があったのですねー。

湯沢鹿にも湯が湧くとかで、ふるさと創生(竹下首相のとき)でボーリングしてみたけど残念ながら温泉は出なかったと聞きました。
日本粘土があった位なので粘土層の上に水がたまって温泉にでもなったんですかね?(全くの素人考え)

びった:

お湯が湧いている温泉ではないと思います。
べっぴんも小本温泉も、本銅も袰綿もそうですから。

温度が低いが成分が温泉だという、鉱泉や冷泉でしょう。
それを昔の人が見つけて沸かして入っていたと。

箱根の芦の湯はそういった温泉で、地下の硫黄の層から
流れてくる水をお湯で割って作ってますね~。


ただ、地面は100メートルにつき1℃とかの割合で
どこでも地熱が上がるので、地下深く掘って水に当たれば
温泉になるわけです。

ふるさと創生では、一億円でボーリングできる深さでは、
ぬるいお湯にしかならない温度帯なので、
なので、それを循環加熱して提供する温泉施設が
あちこちにできたという、
温泉好きには残念な結果になりました。


>お湯が湧いている温泉ではないと思います。べっぴんも小本温泉も、本銅も袰綿もそうですから。

詳しい解説ありがとうございます。

>ふるさと創生では、一億円でボーリングできる深さでは、
ぬるいお湯にしかならない温度帯なので、なので、それを循環加熱して提供する温泉施設があちこちにできた

最近は「源泉かけ流し」をセールスポイントにする温泉があるようですが、「ふるさと創生」で循環加熱温泉が沢山できたためなんですかね?

カッパーハンター:

先週、本銅鉱山跡に行ってきました。舟木鉱床立入坑と一番坑の跡まで登って銅鉱石を若干採集してきました。本銅林道と鉱山へ通じる道路との分岐付近の選鉱所跡にはまだ鉱山神社が祀られ、鉱山事務所か合宿だったと思われる廃屋や索道ケーブルもあり、坑口跡からは僅かの排水がありました。立入坑の廃石中に認められた銅鉱石は珪孔雀石や孔雀石を主体にした青緑色のいわゆる酸化銅鉱でした。これらは木炭で比較的容易に還元して金属銅になるので、早くから山元で簡単な製錬がなされたものと推定されます。また、酸化銅鉱は硫酸に溶解するので、戦後になって選鉱所では酸化銅鉱を硫酸に溶解して鉄屑で置換し、沈殿銅を採取したものと思われます。また本銅鉱山にいく途中にはまだプレハブの鉱泉の建物が残っています。

はじめましてカッパーハンター様

WebMaster@横浜です。

コメントいただきありがとうございます。
非常に専門的な内容で正直あまり理解できておりません(汗)

木炭で比較的低温だったにもかかわらず鉱石から銅を精錬できた、という意味でよろしいでしょうか?

カッパーハンター:

普通の銅鉱石は黄銅鉱を主体とし、銅以外に鉄と硫黄が含まれていますので、先ずこれを薪などを燃料にして焙焼し、銅と鉄を酸化し、硫黄を二酸化硫黄ガスとして除去する工程が必要です。焙焼した生成物をさらに木炭で還元して、鉄を珪酸カラミとして除去、銅を還元して金属銅に仕上げていました。本銅鉱山の主鉱石は酸化銅鉱で、主成分は珪酸銅、炭酸銅、水酸化銅、酸化銅などであるため、鉄や硫黄は殆ど含まれませんから、焙焼する工程は必要ではなく、最初から木炭で還元して金属銅を作ることができたと考えられます。明治以降になって恐らく山元で製錬しなくなって、酸化銅鉱はそのまま銅製錬所に売鉱されたものと思われます。昭和28年頃には酸化銅鉱を選鉱で濃集させ、硫酸に溶解して銅イオン化し、これをイオン化傾向を利用して鉄屑で置換して金属銅(沈殿銅)を得ることが試行されたようですが、十分な成果を挙げなかったようです(高橋維一郎・南部松夫(2003)新岩手県鉱山誌)。

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2006年12月01日 22:29に投稿されたエントリのページです。

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