
~ 2008/07/02 18:47 麦@岩手・岩泉(写真は本文とは関係ありません) ~
「宮古市史 資料集(近世4)」宮古市教育委員会 編 P833
(19) 「野田通御定帳」(久慈市 小田家文書)
嘉永七年十月
口上之覚
支配所野田通安家村俊作ト申者、無調法之儀有之七戸え御追放被仰付置候処、去年十月御免被成旨被仰出、本所罷帰後万端慎罷在候処、当春湊浦御台場并入御蔵御普請ニ付、手賄を以右御普請御用相勤申度旨内々願出ニ付、世話方申付候は挌別心を用ひ出精相勤廻、公義御役方東海岸筋通行之旨御沙汰御座候付、道橋御普請并遠見御番所新規御普請、下安家坂南向新道切披御普請之節共世話方申付候処、始終無怠出精相勤候間、人足共迄も相励、思之外人足嵩ニも相成不申早俄取御出来栄ニ至候儀、令御憐愍を以段々御免被成下候儀、冥加至極難有存相勤候事ニ有之と奉存候、依之御時節柄恐多儀と存候得共、右俊作如何様ニも御賞被成下度願上候、御憐愍を以願之通被成下置候ハゝ、後々右外之御用向相勤候者之励ニも相成可申、私共迄難有仕合奉存候、此旨御序之節宣被仰上被下度奉存候 巳上
十月
照井 腎蔵 印
1年前の「安家村優作?」とリンクする文書である。
時系列に並べてみると以下のようになる。
嘉永6(1853)/10 俊作、追放先の七戸から安家へ戻る
嘉永7(1854)/春 野田湊浦の御台場普請
嘉永7(1854)/10 上記口上
嘉永7(1854)/11 嘉永から安政へ改元
安政元(1854)/? 台場普請の功労者を褒章
よく働いてくれた俊作について「時節柄恐多儀と存候得共」褒賞を与えて欲しいという内容となっている。(はず)
1840年のアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことは衝撃をもって日本に伝えられ、次は日本が狙われるという危機感が幕府にはあった。当時、日本近海にはしきりに外国船が出没しており、(実効性があったかどうかは別にして)攻撃を受けた場合にはそれを打ち払う台場建設は至急の課題だったのである。
南部藩は、松前(北海道)警備を幕府から申しつけられ、これも藩財政を悪化させる原因となった。加えて自藩の広い海岸線を防備するために台場も整備しなければならず、頭の痛い問題だったのではないだろうか?
俊作も清が破れたことを知っていたので、危機意識は幕府・藩とも共通したものがあったはずである。
それにしても「俊作」に褒賞を与えて欲しいと伝えたのに、実際の褒賞は「安家村 優作」となっているのは、弘化一揆の頭人に対して藩側がわざとそうしたのであろうか?
(WebMaster@横浜)