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2008年09月 アーカイブ

2008年09月01日

あさがお

080830_asagao_m.jpg
~ 2008/08/30 11:54 あさがお@岩手・岩泉 ~

気に入ったブルーのあさがおがせっかく咲いたのに雨降りが続く岩手です。色が薄いですけど写してみました。
(母ヨウコ談)

全国あちらこちで激しい雨が降り続いているようですが、今日(8/31)は久々に暑かった横浜です。
あさがおといえば夏休みの宿題。日記をつけずに青くなっていたのは小学何年生のことだったか。。。?
(WebMaster@横浜)
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このブログは分担して投稿しています。
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2008年09月03日

いわご & トマト

080903_iwago_m.jpg
~ 2008/09/03 14:07 いわご@岩手・岩泉 ~

080903_tomato_m.jpg
~ 2008/09/03 14:12 トマト@岩手・岩泉 ~

写真はいわごを切って今日干したの。午後は雨なんだけどどうしても干したがったの。
黄色いのはオレンジじゃないトマトです。おいしそうでしょう?
(母ヨウコ談)

いわご=ユウガオです。干して作ってるのはカンピョウですね。
同じ岩泉町内の釜津田もいわごシーズンのようです
実家では油で炒めてました。
(WebMaster@横浜)
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2008年09月15日

焦げ爺(こげじい)

shigarami_m.jpg
~ 図は以下の引用元文書より作成 ~

'85 ふるさとノート 岩泉民間伝承研究会
「文政五年 袰綿村百姓一揆拾遺 有芸(うげい)・永佛(えいぶつ)の夕映え」 佐々木京一
P277

関口喜多路氏の語りでは、兄安右エ門は左小鬢(こびん)に火傷の跡があって「焦げ爺(こげじい)」とあだ名されていたという。

...中略... 継右ェ門は眠っている三人の頭に触れながら、兄を捜し出し「どんな理由があろうとも、一揆の先立ちは打ち首だぞ。逃げろ。」と かき口説き、安右ェ門を連れて逃げてしまった。鉄山師佐藤儀助の差し金によるものだ、という伝承は前述の通りの血縁関係から、そして継右ェ門が儀助の番頭をしたという関係から、信憑性が高い。

これを読んでいて「焦げ爺(こげじい)」=安右エ門=弥五兵衛と直感した(^^;

引用箇所にいたる顛末は以下のとおりである。

文政5年に袰綿村(現在の岩手県下閉伊郡岩泉町袰綿)で起きた地頭袰綿瀬左衛門を排斥する一揆であるが、遠野まで出向き訴えは聞き入れられた。ところが宮古代官所から一揆の代表者に出頭するよう通達があり、本右ェ門・清兵衛・安右エ門の3名が向かうこととなった。宮古へ向かう途中の有芸(うげい)で一泊していたところ継右ェ門が追いかけてきて兄の安右エ門を連れ戻した。

これは袰綿瀬左衛門、佐藤儀助と安右エ門兄弟の複雑な関係を、地元の古文書・口碑を丁寧に調べ上げた佐々木京一氏の記事である。

中でも注目したのは以下の点である。
・弟の継右衛門は弘化一揆の頭人の1人である。一揆に参加したとき年齢が62歳である。
切牛弥五兵衛がこのとき67歳という説によれば、兄の安右衛門の年齢は近いのではないか?

・一揆の責任をとって宮古代官所に出向く途中、連れ戻された安右衛門は袰綿に戻ったのかどうかが分からない。
これは文政12年、浜岩泉村肝入文書に登場する安右衛門という「先年の弥五兵衛」ではないか?

・袰綿一揆は宮古代官所に瀬左衛門の非を訴えでて、埒が明かないとみるや、はるばる遠野まで出向き目的を達成している。
後の弘化一揆の訴願パターンがすでに実行されている。

・弘化一揆の頭人はいずれも佐藤儀助の鉄山に関係があった。
 安家村俊作
 安家村忠太郎(父の定助が番頭をした)
 継右ェ門

安右衛門のその後の消息について説明している資料、史料がありましたら是非ご教示くださいm(_ _)m

2008年09月30日

五戸通一揆

080920_edamame_m.jpg
~ 2008/09/20 17:56 枝豆@岩泉(写真は本文とは関係ありません) ~

解題書目 第7集 青森県立図書館編
萬日記抄(一)
P126-127

同十七日晴天(註1)

昨夜より今暁に至り板子坂立払、浅水村にて役方の者色々申諭候得共無態に押破り三戸郷境薬師長根迄来候旨追々の注進に付昨日夫々役方の者聖寿寺へ立越置候処追々の注進櫛の歯を挽く如く今未頃御代官柴内律兵衛・下役鴨沢金右衛門・御物書石井友司外御給人共三拾人程召連れ薬師長根へ出馬致候所御百姓共数千人屯ろ致居、此方にては早馬にて馳付丑立場と申所へ陣を取り、役方弐・三人、御同心三人差遣、何等の故に右様数千人寄集り居候哉何か願向有之候はは申出候様何にても取次可申候此炎天に数日被照候儀痛入候何とか執成其方共願向被仰付候様世話致遣可申旨色々申諭候所難有体にて一統へ相談の上可申上旨重立候者共申出相待居候所小間居の者迄相談仕候処難有事に御座候五戸にて十七ケ条願上候所今に一ケ条も御沙汰無御座候依て別紙十七ケ条の通扨又此元様にても被仰上何分早く御沙汰に相成候様被成下度旨願出依て重立候者共三戸町へ旅宿被仰付御沙汰を相待居申度小間居の者共不残本処へ相返申度旨共申出神妙の由

[中略]

残重立候壱名・肝入九拾七人三戸へ召連れ町宿へ留置

[以下略]

註1 嘉永6年7月17日

この日記は三戸代官所で与力を務め上げ、嘉永6年御給人に昇格した石井良助が残したものである。(引用文中の石井友司は倅)

引用の嘉永6年7月17日は、三閉伊一揆の代表45人がまさに仙台で交渉していた時であり、これに呼応するかのように起きた五戸通(現青森県)一揆が五戸から三戸まで押し出してきた時の模様である。

印象深いのは、参加人数が数千人もの規模であり、交渉のために三戸に残った肝入(村長)の数が97人!ということである。
三閉伊一揆で仙台に残った代表が45人ということなので倍以上である。(そんなに残らなくても良いのではないかとも思うのだが...。)

7月17日は晴天であったことから「炎天に数日被照候儀痛入候」という農民への言葉は一揆を懐柔するためというより役人の心情を表しているように感じる。

というのは、この日記の嘉永3年の項に別段大豆買い上げについて


誠に御百姓共迷惑可申候(同書P92)


打続御百姓共迷惑可致事(同書P93)



という筆者の意見が述べられており代官所役人とはいえ農民に同情的だったことが伺えるのである。

また三閉伊一揆でおおわらわとはいえ、五戸代官所の対応もイマイチではある。一揆側は訴願先の代官所がだめなら次の代官所、さらには代表だけ残して後は帰村という流れであり、これまでの訴願パターン?を踏襲しているのである。

まだ一部しか読んではいないが、


正月元旦 晴天 家内合六人男四人女弐人馬三疋 無事越年(同書P80)



という筆者に人間臭さを感じて好きな日記である。

# 新渡戸傳はこの年2月に三戸代官に任命され、5月に到着したはずであるが...。

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