
~ 2009/08/14 11:01 小川炭鉱展示会@岩泉(写真は本文とは関係ありません) ~
「一 地藏町旅人宿鐵藏、南部宮古三平、行衛尋不出ニ付、過料錢三貫文、永尋申付ル、」(1)
出典は幕末、箱館奉行の村垣淡路守公務の安政4年4月10日の日記である。
ここに登場する「南部宮古三平」は「斎藤三平」のことではないかと思えてしかたがない。理由は以下のとおりである。
- 1. 日記に登場する三平
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安政4年の日記には「三平」が2人(3人?)登場している。「三平」とのみ記述された場合は「高橋三平」を指しているようであるが、斎藤三平は「斎藤三平」となっている。ただし、これは安政4年7月に箱館奉行御雇の書類が到着した後の記述であるため、4月時点では「南部宮古三平」となっているのではないだろうか?南部藩宮古通から箱館へ出稼ぎに来ていた三平という人の可能性もないではないが...。
- 2. 斎藤三平と宮古
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三平は南部藩の産物御用となり材木を他藩に輸出していた。当時は山で木を切って川へ流すということをしていたため、宮古、釜石など港があるところへ出向いていた。(2)
また天保5年、新渡戸傳は斎藤三平が各地で切り出してあった材木を引き受けた際、宮古の苅屋團右エ門(刈屋団右衛門)宅に居た斎藤三平母に会っている。
「斎藤三平母は苅屋團右エ門宅に居り申されける」(3)
- 3. 箱館銭座開設式典
安政4年4月5日には箱館銭座開設の式典があった。これは幕末の開港により幕府の再直轄地となった箱館・松前・蝦夷地限りに通用する鉄銭を鋳造するためのものであり、その仕譯帳を作成したのは斎藤三平であった。(4)
- 4. 「尋で之を採用す」
- 以下の斎藤三平日記の記述は村垣の日記と対応しているのではないだろうか?
「安政4年3月箱館奉行、請ひて三平の江戸拂を赦免し、尋で之を採用す。」(5)
当時、斎藤三平の蝦夷開拓に理解を示していたのは老中の阿部正弘であったが、安政4年6月には死んでしまった。三平の箱館奉行御雇書類はその前後のタイミングで作成されている。安政4年4月時点で「蝦夷地開拓」を考えていた三平の思惑は、箱館奉行が期待する役割(鋳銭?)と一致していたのだろうか?
(1) 大日本古文書 幕末外国関係文書 附録之四 P444 村垣淡路守範正公務日記之九
(2) わが斎藤三平伝 P276 史料25 斎藤三平産物御用ニ而海辺通り登り方(一)(宮古市山口小笠原家文書)
(3) 三本木開拓史 上巻(新渡戸伝一生記) P36
(4) 箱館通宝鋳造の顛末 P13~P17
(5) わが斎藤三平伝 P300~P301 史料42 斎藤三平小伝(『斎藤三平日記抄録』)
(WebMaster@横浜)
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