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2009年09月 アーカイブ

2009年09月10日

岩手炭礦の絵ハガキ

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~ CARTE POSTALE(絵ハガキ・二銭切手貼付) ~

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~ 「東京 大塚巧藝社 印行」 ~

先月岩手に帰省した際、関係者から日本粘土(になる何代か前の岩手炭礦)の貴重な絵ハガキをお借りした。
絵ハガキはモノクロで8枚あったが、それぞれ以下の撮影場所の記載があった。

岩手炭礦倶樂部 [淨産舘] (1)
岩手炭礦倶樂部 [淨産舘] (2)
岩手炭礦全景 (1)
岩手炭礦全景 (2)
岩手炭礦・鑛業所正門 (1)
岩手炭礦・鑛業所正門 (2)
岩手炭礦・索道 (1)
岩手炭礦・索道 (2)

調べてみたらハガキ料金が2銭から3銭になったのは、昭和19年4月1日のことらしい。

また、昭和12年生まれの実家の父が記憶している炭鉱の景色とほぼ一致していること、文が右から左に書いてあるあたり、撮影・発行されたのは戦時中くらいだろうか?

今の景色と見比べてみると色々違っているのが分かって興味深い。

・社宅(長屋?)が前の床屋あたりにずらりと並んでいる。
・名目入は淨産舘のまわり以外には全然家が建っていない。
・煙突はまだ立っていない。

最後になりましたが、貴重なハガキの提供ありがとうございましたm(_ _)m
(WebMaster@横浜)

2009年09月14日

岩手炭礦[1/4]

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岩手炭礦・鑛業所正門 (1)

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岩手炭礦・鑛業所正門 (2)

4回に分けて岩手炭礦の絵ハガキを紹介したい。

まずは正門から。看板の記述は、

岩手炭礦
縦覧謝絶
御用の方は守衛へ

となっている。道路は舗装されてないが、奥のほうの建物の配置はその後もずっと変わっていなかったようだ。2枚目は、東からの日差しで建物の影がくっきりしているが、人気が感じられないあたりは始業前にでも撮ったのだろうか?
(WebMaster@横浜)

岩手炭礦[2/4]

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岩手炭礦全景 (1)

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岩手炭礦全景 (2)

第2回目は岩手炭礦の全景である。
何といっても社宅(長屋?)が川の手前にずらっと並んでいるのが印象的である。

のちの日本粘土当時、床屋はこのあたりに建っていたと思うんだけど...。

以下、個人的な思い出。
小川中の学生当時、日本粘土の写生大会で水彩画を描いたは良いけど、筆が遅くてなかなか終わらない。しかたないので日曜日に続きをやってたら、今度は雨が降り出した。
どこか屋根が無いかと探していたら、床屋の裏手にコンクリートのたたきとその上に家を解体した廃材が積んであった。廃材の下に潜り込んで雨を避けながら絵を描いたのだが、あれはこのハガキに写っている長屋の残骸だったのかと。

(WebMaster@横浜)

岩手炭礦[3/4]

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岩手炭礦倶樂部 [淨産舘] (1)

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岩手炭礦倶樂部 [淨産舘] (2)

第3回目は淨産舘である。

といっても昭和40年代生まれの私は実物は見たことがないのであるが、川の流れや地形はどう見ても名目入である。
前2回と違い、ちゃんと人らしきもの(1枚目、中央の坂に2人、手前の畑に1人)が見える。2枚目を見ると、何かこの建物だけ周りの景色から浮いているような印象を感じるのは私だけだろうか?

# 淨産舘について御存じの方はぜひコメントください。
(WebMaster@横浜)

■ 2009/09/28 追記
浄産館(淨産舘)取り壊しはバイパス工事の前だったという情報ありました。

■ 2009/10/04 追記
[淨産舘] (2)の写真について実家の父から聞いた話は以下のとおり。
--
写真手前に見えているのは、水車を回す水を引くための堰止めではないか。水車は結構大きなもので、タチバナ工場(こうば)という製材所が使っていた。この製材所はいつ頃まであったかは記憶していないが、索道があったころまではあったはず。製材所がなくなって荒れ地になっていたところを埋め立てて皆川さんが修理工場を建てた。

製材所では戦後の当時、あの辺りでは珍しいクルマを持っていた。ところがこのクルマは木炭車だったため、材料を沢山積んだり坂道だとよく走れなくなって、木炭を入れて火を起こすの(送風機?)を回して、ようやく走っていたのを覚えている。
--
時期の前後関係、工場名など勘違いしている箇所があればご指摘ください。

岩手炭礦[4/4]

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岩手炭礦・索道 (1)

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岩手炭礦・索道 (2)

このハガキを見てようやくわかったかも。
実家の父が言っていた「鉄索」=「索道」だったようです。
これまでの情報を整理すると以下のようになります。

・戦時中に使われていたもの。
・戦争も末期になって、学生まで動員して石炭を掘って茂市に運び出すのに使ったらしい。
・日本粘土の煙突がある(あった)辺りから、名目入の少し三田貝よりのほうを通って急な山をまっすぐ大川のあたり(大渡、宇津野?)まで結んでいた。
・粘土を掘る頃にはもうトラックで運ぶようになっていた。

# 内容について誤りなどありましたらご指摘ください。

(WebMaster@横浜)

2009/10/4追記

'93 不思議の国いわいずみ ふるさとノート 岩泉民間伝承研究会
P335
鉱山(やま)の灯を消すな - 闘いぬいた八ヶ月
日本粘土鉱業所閉山反対の闘いの記録
P338

採掘された石炭・粘土は、トラックと五分の一トンバケットの索道によって茂市まで運び、茂市駅から貨物車によって運び出せるように、貯炭場まで作られたが、予算の関係等で中止になり、和井内まで索道は架設された。

その後鉄道が押角まで延びて、押角から索道で運搬、そして押角トンネルが開通し、宇津野駅が出来たので、宇津野駅まで索道と、トラックによる運搬となった。

改めてふるさとノートを読み返したら、索道についてちゃんと書いてありました。
文中の「押角から索道で運搬」の部分はおそらく「押角まで索道で運搬」の誤りかと思われます。小川炭鉱展示会を開催された熊谷氏から以前コメントいただいた「元山から茂市までの索道架線を書いた図面」とも話が合致します。

またノートによれば、索道は後に差押え公売されることになります。
これは岩手窯業鉱山時代の昭和28年、経営危機により未払いとなった賃金を支払うよう組合が経営者を訴えた裁判で「断行仮処分命令」が出たためです。公売された索道は地元の畑中組によって解体されました。結局、昭和30年に日本粘土鉱業に経営が移った時点では、索道でなくトラックによって粘土を運ぶようになっていたということになるかと思います。

2009年09月23日

鉱山トロッコ紀行

090923_trolley_m.jpg
~ 鉱山トロッコ紀行(1) 峯尾潤 著 ~

先月岩手に帰省した際、関係者から日本粘土当時のトロッコ写真を見せていただいた。
撮影したのは峯尾潤という上記の本を出版していらっしゃる方だったのでここで紹介しておきたい。

本はさっそく入手したのだが、実家の父は相当熱心に見ていたようだ。
坑内で仕事してたので見なれたトロッコだったろうし、背景の四季折々の(今はもう無い)景色や作業している人達が懐かしかったようだ。
(WebMaster@岩泉)

■ 2009/10/04追記

日本粘土とそのトロッコは、以下の記事にあるようにその世界では以前から知られた存在だったようだ。

鉄道ファン1983年7月号
専用線の機関車7 ネンド なめいり くもりぞら
執筆は岩堀春夫氏で、現在ないねん出版の主宰者である。

三平、代金ノ代リニ薪引渡

090815_takakibi_m.jpg
~ 2009/08/15 15:41 タカキビ@岩泉(写真は本文とは関係ありません) ~

斎藤三平に関する記述をたまたま見かけたのでメモ。

箱館奉行所文書 請求記号:A 1-3/8 資料名:各国書翰留 文久元酉年正月ヨリ十二月迄

件名番号:195 件名:米国商人フレツルヨリ破船譲受ノ斉藤三平,代金ノ代リニ薪引渡ニ付取調ノ件
1861.3.14 主務者:交易方エセント官勤方トフリューアルピツツ→箱館奉行勝田伊賀守

件名番号:275 件名:斉藤三平所持ノ難破船タイノスノ碇具等、引取ノ件
1861.12.2 主務者:合衆国コンシュル方エセント勤方ウイルレム.ル.ピッツ→箱館外国事務役人


三平以外の人名は

函館市史 デジタル版 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ 箱館の置かれた環境 P144-P152
で調べたところでは、以下のとおりらしい。

フレツル:FLETCHER,C.A.
トフリューアルピツツ:?
ウイルレム.ル.ピッツ:PITTS,W.R.

フレッチャーがフレツル?とは思ったのだが、


箱館奉行所文書
請求記号:A 1-3/7 資料名:各国書翰留 万延元申年七月より十二月迄

件名番号:59 件名:浄玄寺境内ニフレツル住居地借請ノ件
1861.1.31 主務者:交易方エゼント勤方ドブリユ.アル.ピツツ→箱館外国事務役人

函館市史 デジタル版 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ 居留外国人の家作 P177-P178

アメリカ商人フレッチャーも家作をしている。場所は浄玄寺境内のアメリカ領事ライスの家の隣である。

あたりを合わせて考えると間違いないかと。

以上の情報すべてをネットから検索できる北海道、函館市の取り組みは非常に先進的と感じる。
件名を見ただけで肝心の中身は一切分からないので、オーエンと何か関係があったのか、何のために難破船を譲りうけたのか等は全く不明である...。ケイゾク調査。

(WebMaster@横浜)
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この投稿は以下の分担で作成しました。
 ・写真撮影  WebMasterの母ヨウコ@岩泉
 ・投稿とコメント WebMaster@横浜
(WebMasterは産直サイト「おあげんせ」の管理者です。)
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2009年09月27日

浄産=上三

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~ 2009/09/14 14:59 オリジナルのヒエ島@岩泉(写真は本文とは関係ありません) ~

岩泉地方史<上巻>  関口喜多路
P866
昭和十一年一月「岩手炭鉱鉄道株式会社」の発足となり、上田辰卯が社長に、上田の朋友田中道明が専務に、ほか田中の一族が、幹部の椅子を独占したのであった。当時この山は「浄産鉱」とも称されたが、これは社長の上田の持つ株屋が上三といったところからこれをもじって与えられた鉱山名でもある。

「浄産」の由来が株屋の名前とは...。
浄産館(淨産舘)の名前もここから来ているのだろうか?
(WebMaster@横浜)
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 ・写真撮影  WebMasterの母ヨウコ@岩泉
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