
~ 2009/09/14 14:59 オリジナルのヒエ島@岩泉(写真は本文とは関係ありません) ~
- 岩泉地方史<上巻> 関口喜多路
- P866
- 昭和十一年一月「岩手炭鉱鉄道株式会社」の発足となり、上田辰卯が社長に、上田の朋友田中道明が専務に、ほか田中の一族が、幹部の椅子を独占したのであった。当時この山は「浄産鉱」とも称されたが、これは社長の上田の持つ株屋が上三といったところからこれをもじって与えられた鉱山名でもある。
「浄産」の由来が株屋の名前とは...。
浄産館(淨産舘)の名前もここから来ているのだろうか?
(WebMaster@横浜)
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この投稿は以下の分担で作成しました。
・写真撮影 WebMasterの母ヨウコ@岩泉
・投稿とコメント WebMaster@横浜
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コメント (2)
はじめまして。時々拝見させて頂いています。と言うのは、私も小川出身です。そして、父も日本粘土にお世話になり、父が亡き後は、家族でずいぶんお世話になったところです。今は、昔…というようになってしまいましたが、私は中学校まで小川で育っていますので、とても懐かしい風景ばかりです。名目入の上越・鴨沢と昭和40年に中学校を卒業するまでですから。小川中学校も3年生のときは4クラスもありました。古い貴重な写真を見せて頂きありがとうございました。佐々木京一先生のお話とか…。懐かしいお話いっぱいです。姉の担任の先生でしたから…。
名目入の浄産館なんて、高いところに立っていて、会社の管理職の方がすんでおられたのですよね。社宅にたくさん住んでいたのは、小学校のあたりまでで、中学校の2年生あたりに来る日も来る日も川崎方面に引っ越す友達を見送った記憶が残っています。…名目入社宅の坂の左側には、「希望会館」という映画館がありましたよ。今考えると色々イベントがあって楽しみでした。昔・昔のお話になりました。
Posted by: ぶうたむ | 2010年04月04日 17:36
日時: : 2010年04月04日 17:36
はじめまして、ぶうたむさん
WebMaster@横浜です。
昔の小川(こがわ)についての証言(?)ありがとうございます。
昭和40年小川中卒ということは...私が生まれる前ですね(汗)
私のときは3クラスというのが多いほうで、2クラスが普通でした。(1クラスの人数がそもそも違うかもしれませんが。)
浄産館は会社の管理職の方が住んでたところだったんですか...なるほど。
希望会館とか、以前のにぎやかさを知っている方が今の名目入を見れば、本当にさびれているように感じるのではないでしょうか。
>中学校の2年生あたりに来る日も来る日も川崎方面に引っ越す友達を見送った
年表によれば鉄鋼不況で閉山になりかけてた頃ですね。
日本粘土は倒産したり経営権が移ったり、会社名もコロコロ変わってるんですが、これまではしぶとく生き残ってたんですよね...。
Posted by: WebMaster@横浜 | 2010年04月05日 00:33
日時: : 2010年04月05日 00:33