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岩手/岩泉のそれほど昔ではない昔話です。(最終更新日:2007/09/03)【番外編】大披(おおひらき)鉄山の所在
以下の資料から、私(WebMaster)にとって長らくナゾだった大披(おおひらき)鉄山の場所が判明しました。
- 「野田村誌 : 通史・史料」 野田村 1992.3
- P373、374
- [大披鉄山]
- 大披鉄山は「滑川(なめり)」の上流、白石峠の北東1kmの野田街道脇にあり、小流・日溜り・広場などの条件を満たし、鉱滓・セキシロの遺跡が残っている。
同書P374の地図には、ナメリ橋を渡って白石峠方向に進んだ先、野田街道と「上チャー」「中チャー」「下チャー」が交わる場所の近くに「大披鉄山」の記号があります。 つまり「【番外編】嘉永一揆のたどった道(野田塩ベコの道)」でこの夏通った道路脇にあったのです! 場所的には左の写真の「塩の道 中沢 野田街道」道標の近くと思われます。 この道標にくくりつけてあるのは「境界 見出標 18 青森営林局」の看板です。(写真は解像度を落としてあるため判別は難しいですが...。)
さて、2007年正月に室場(大披)鉄山のたたら跡を訪れた後も、何か違うのではないか?と南部藩の鉄山に関する情報を調べてきました。 ある時はネットで検索してみたり、ある時は神保町の古本屋街をうろうろと古本探しをしてみた訳ですが、 最後に辿り着いたのは国立国会図書館でした。 何といっても蔵書の数は圧倒的です。ネットから文献検索ができ、イメージしていたよりずっとオンライン化され使いやすいと感じている今日この頃です。 「野田村誌」も国会図書館で閲覧し、上記の記述を発見できたものです。すでに15年も前に判明していたことをまた今さら「発見」なんてと思われるかも知れませんが、まぁ素人のやることですので大目に見てやってください...。
ということで、何度もくどいようですが嘉永三閉伊一揆で打ち壊しにあったのは田野畑の室場(大披)鉄山ではなく、宇部の大披鉄山ということで改めて訂正いたしますm(_ _)m
【番外編】嘉永一揆のたどった道(野田塩ベコの道)
安家・淀屋敷文書に残されている嘉永三閉伊一揆の足取りを一部写真に収めてきました。 文書の記述から一揆は下戸鎖(白石野原)->白石峠->(大披鉄山?)->野田城内->大須加浜というルートで野田へ押し出したと考えられますが、今回はそのルートを野田の十府ケ浦側から下戸鎖へと逆にたどりました。 あわよくば大披鉄山のたたら遺跡の場所が分かるかと思ったのですが、それは叶いませんでした。
全国的な猛暑で岩手県も大変な暑さでしたが、開け放った車窓から入ってくるアブと共に険峻な白石峠を無事越えてきました。 (地図上のマーカーをクリックすると写真を表示します。)
- 廿二日、安家通にて上戸鎖り下戸鎖村、伊藤半兵衛殿ニ而飯酒ニ而賄ヲ被下、白石野原ニ泊り
- 廿三日、朝大ひらき御鉄山参候而、[中略]。御日払所打こわし、諸道具、諸品不残打ちらし候得者、中々筆紙不及事、其より城内の酒屋へ罷越飯酒の御地走被下早、其日も晩に成大すか浜へ罷出泊り
【訂正】【番外編】大披(おおひらき)鉄山跡をたずねて
以下の文献を今夏(2007/8)入手しました。この文献と照らし合わせると「【番外編】大披(おおひらき)鉄山跡をたずねて」記事中の 「三閉伊一揆で打ち壊された大披(おおひらき)鉄山」の記述は誤りと考えられますので訂正いたします。 写真で紹介したのは「室場鉄山」あるいは「室場大披鉄山」のたたら跡とすべきであり、一揆で打ち壊された大披鉄山は別に存在します。 以下は鉄山に関連する箇所の引用です。
- 「新たのはた風土記」 田野畑村芸術文化協会 平成6年発行
- P75
- ◎鋳銭所跡
- <名称>田野畑村鉄山鋳銭所遺跡
- 下閉伊郡田野畑村字七滝76番 S氏 畑90坪
- <遺跡の伝承>鉄山鋳銭所
- <遺跡の現況>この鋳銭所は、天保年間より南部藩の経営せるものと伝えられる。
- [中略]
- ・ここの土地所有者の祖父は、鉄山事務所の番頭であったが、「炉の神」の跡を三坪耕作することを止めて草生として置き、家の裏山に祠を建てて祭祠している。
- <遺跡の推定時代>近世 江戸時代 天保年間-明治初期
- P86
- 田野畑村室場鉄山
- 田野畑村及び隣接岩泉町にまたがる「室場鉄山」とは、多く田野畑村地域に産出する「砂鉄」を製錬した、次の13鉄山の総称であった。
- [中略]
- (5) 南部藩直営鉄山(鉄山集落)
- 取り扱い:田野畑村民俗資料館
※ 氏名はイニシャルとさせていただきました。「七滝76番」をGoogleマップ、Mapion等で調べると「岩手県下閉伊郡田野畑村七滝58」が一番近い住所のようです。
【番外編】大披(おおひらき)鉄山跡をたずねて
2007/1/3 嘉永の三閉伊一揆で打ち壊された大披(おおひらき)鉄山のたたら跡を写真に収めてきました。 三閉伊一揆の文献に記述されている地域が実際の地図とずれがあるように感じていたため、その確認の意味もありました。 当日は地図を持って出るのを忘れるというミスをしましたが、天候もよく、近くにお住まいの方にも教えていただいたおかげで「たたら跡」にたどり着くことができました。 幕末の大一揆の舞台となったこの地域も「夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと」そのままにひっそりと静まり返っています。 (地図上のマーカーをクリックすると写真を表示します。)
【番外編】晩秋の小川探訪
マップ : フキダシの場所で写真を撮影しました。フキダシをクリックすると写真を表示します。
袰綿義民とは?
何年か前にWebで三閉伊一揆を初めて知りました。 稀に見る高度に組織された一揆であったようです。(詳細は上記ページを参照) てっきり自分の先祖も一揆に参加したのかと調べてみたのですが、岩泉の小川からは参加したという記述は見つかりませんでした。
釈然としないままに何年かたったのですが、意外にも実家にあった「広報いわいずみ 縮刷版」の「郷土今昔あれこれ」に答えが出ていました。 キーワードは「袰綿義民」です。(詳細はつづく...。)
| 西暦 | 和暦 | 全国・南部藩のできごと | 袰綿のできごと |
|---|---|---|---|
| 1590 | 天正18年 | 豊臣秀吉の太閤検地(なで切令) | 地頭(袰綿御所末裔)による袰綿村支配は温存される |
| 1755 | 宝暦 5年 | 宝暦の大飢饉 →南部藩内で5万余の死者 |
|
| 1782 ~ |
天明 2年 ~ |
天明の大飢饉(4年続き) →南部藩内で7万余の死者 |
|
| 1785 | 天明 5年 | 04/14 天明年間袰綿一揆(上田代官所) →5月に農民へ安堵状(回答)を示す |
|
| 1812 | 文化 9年 | 大雨大洪水 | |
| 1814 | 文化11年 | 大飢饉、天然痘の大流行 | 小川筋三か村(袰綿、門、穴沢村)が上田代官所から宮古代官所へ支配替。 小本川大氾濫 |
| 1822 | 文政 5年 | 05/04 文政年間袰綿一揆(宮古代官所) →訴願への処置なし(改悪) |
|
| 1823 | 文政 6年 | 02/24 袰綿の義民二名が宮古代官所に訴願 →02/27 訴願人打首の法度により斬罪処刑 →06/03 地頭による袰綿村支配が廃止される |
|
| 1837 | 天保 8年 | 小川筋三か村が宮古代官所から上田代官所へ支配復帰 | |
| 1847 | 弘化 4年 | 弘化三閉伊一揆(訴願26箇条) | 小川筋三か村から三閉伊一揆不参加 |
| 1853 | 嘉永 6年 | 嘉永三閉伊一揆(訴願52箇条) | 小川筋三か村から三閉伊一揆不参加 |
- 参考文献
-
- 広報いわいずみ 昭和40年3月15日版~昭和41年1月20日版
- 郷土今昔あれこれ「袰綿義民秘録」 関口 北路
- 街道の日本史(5) 三陸海岸と浜街道
消えたランプはこれ
下の「ランプが姿消す~」のとおり、昭和39年大久保に電気の明かりが点灯するまで家の中を照らし続けたランプです。ランプが姿消す 二百十七戸
広報いわいずみ 昭和39年9月5日より
町の重要施策として推進している、無電灯地区の解消事業は順調にすすみ、前年度は八地区で約百七十戸に文化の灯が入りました。 本年度の電気導入地区は次のとおりです。
...中略...
小川地区
南沢・救沢・大石沢・大久保・田山の五地区
※ 上記は原文の一部表現についてPC(政治的に妥当)な言葉への置き換えがあります(^^;
大石沢の水神祭のころ
~昭和15年生まれヨウコ(over還暦)からの聞き取り~
小学校のころだったども、学校から家(救沢)に帰ってがら大石沢のお祭り(水神祭)に行ったもんだったなぁ。 ほかに娯楽っつうのもなくて楽しみにしてだったぁ。
ノザワっていう屋号の家があってそごの山を越えで 救沢から大石沢に行ったった。(地図にのってなくてオレァ勝手にノザワって呼んでただけだども。) 今ぁ、新しぐ道を作るっつうんでその頃の道ははぁ壊れだべぇな。山を越えで歩いて1時間ぐれぇはかがったが。
大石沢のお祭りも今はカミムゲェの家で餅をつぐっでだしてるぐれえだども、前はデミセが来てで賑やかだったんだ。 こずかい50円もらってアメっこ買って帰ったくれぇだども。 その頃はキャラメル1箱10円、ラムネ1本15円くらいだったな。 大石沢の神社は目の神様だってんで、水飲めば目が良ぐなるっていわれでぇで、サンショウウオを飲んでも目が良ぐなるっていわれでだったども気持じぁ悪くて 飲んだごとはねぇどもなぁ。
【解説】 昭和15年生まれというと昭和20年代は戦後まもなく小学生の時期となります。 門の小学校から救沢の生家に帰って、それから大石沢へ行ったとなると4-5Kmは歩いている計算でしょうか。
自家用車など自家用ジェットと同じくらい夢の時代、小学生でもこのくらい歩くのが普通だったようです。この祭りは旧暦3月16日でちょうど農作業が始まる前の時期となっており、 旧暦は農家の年間スケジュールにマッチしていたということですね。
大石沢と救沢の地図


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